●[おしえて!仏教 1]はじまりは一本の電話
「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」(岩波文庫『ブッダのことば』中村元 訳)
そうブッダは言ったらしい。愛欲を断ち切ってただ独り歩む、それが「苦」から離れる唯一の方法だというのは理解できるが、そんなことが可能なのか? 私の愛はどこへゆくのか? 最近よく考えるのはそういうことである。冗談抜きで。
そんな中、盟友ツジナカヒロキから電話が来た。このブログの読者であり、私の十年来の友人である。「おばあちゃんが亡くなって、いろいろ仏教のことに興味を持つようになった」とのこと。私に次々と仏教について訊いてくる。そんな急に言われても、とアセる。苦し紛れに「いきなり言われても答えにくいし、じゃあブログの連載にでもせんか?」と言うと、あっさりオッケー。ということでこの企画では、悩める仏教青年キノシタが、拙いながらも仏教の大問題と格闘し、答えらしきものを書き連ねていくのである…。
第1回の質問は「死んだらどうなるの?」である。そんな、いきなり根元的な命題が!と言うも、ツジナカが知りたいのは「何日後に霊魂はどの辺りにいるのか?」という、ある種の霊魂旅行日程らしい。まあ、そこだけならば比較的簡単にわかる。
基本的に仏教では、死ぬと「次に生まれ変わる(=輪廻)」なわけだが、死んだ瞬間に次の生が始まるわけではない。微妙な状況をさまよっているインターバルが多少あるわけで、それを「中有」(ちゅうう)と言う(中陰、チュウインとも言う)。その期間にも諸説あるのだが、一番有力なのが49日である。現在7日ごとに法要を営み、四十九日を満中陰とするのはそのため。仏教では何かと7の倍数にこだわるようで、まあこれは1週間が7日であることも関係あるだろう。
と、ここまで書いて自分でもよくわからなくなってきた。これじゃあツジナカは納得せんな。
輪廻、と言うが、じゃあ四十九日過ぎたらどこへ行くのか? 極楽浄土に行くのか? あるいは、お彼岸とは何なのか? そもそも「中有」なんていう考え方を発明したのは誰なのか? ブッダではなさそうな気がするぞ…。確か奴は「死後のことは考えるな」と言ったんじゃなかったか。わからん、わからん。苦悩のまま次回へ続く。


コメント
なんかちょっとだけわかったけど、あんまりわからんね。結局、いわゆる葬式仏教ってのは日本に大乗仏教が伝わった後にできたもんなんやろうか?それとも、大乗と小乗が分離した時点で生まれたもの何やろうか?そうすれば、中国やタイにも死後の「中有」という概念が存在するのかなあ?
Posted by: kinstarことツジナカヒロキ | 2006年05月20日 11:07