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2010年08月11日

●メールは議論に向かないけれども、敢えて

という言葉から始まるメールを立て続けに2通受け取ったのだ。こちらからの長文の意見メールに対する返信なので、原因はキノシタにあるのだが。

しかし、メールが議論に向かないとするならば、昔のひとはどうしていたのだろうか、と思う。あるいは、文壇の論争は何なのか。めんとむかってコミュニケーションしなければ、論理的な話し合いはできないのか。やりづらいのか。

ぼくは「メールは議論に向かない」というのは半分当たっていて半分当たっていないように思う。「メールは議論に向かない」のではなく、「メールでは結論を出しにくい」ということなのではないだろうか。

文壇の論争などその最たるもので、どちらかが返事を出さないで事実上終わる、みたいなのがほとんどだ。むかしそれを揶揄した清水義範が、文壇史上はじめて片方が「私が間違ってました」と謝る論争、というテーマで小説を書いていたことを思い出した。

実際に会って話すときは「なんとなくその場の雰囲気も含めて納得する」とか「精神的に腑に落ちる」といった、精神へのトリガがかかりやすい。しかし、文章での議論にはそれがない。だから、「メールは議論に向かない」のではなく「メールは、一定期間で結論を出さねばならないようなビジネスによくある議論には向かない」ということなのだと思う。

厳密な意味での論争は、むしろ言葉になっているほうがやりやすいと思う。なかなかハードな戦いになることは承知の上であるが。

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